日本国憲法の問題点
小室直樹2002年4月30日集英社インターナショナル
第四章、憲法を殺す官僚の大罪
175頁、「官僚独裁」の国・日本
日本国憲法はまさに瀕死の状態である。
カトリックの僧侶なら、今ごろ終油の秘蹟を行って「汝の魂が天国に行けますように」と祈っているくらいの段階である。
日本国憲法の棺の蓋はまさに閉じられようとしている。こと、ここに至るまでには、すでに述べられてきたとおり、さまざまな「病因」がある。
戦後教育の問題、首相の指導力の問題、だらしない政治家の問題、さらにはマスコミの問題・・数え上げていけばキリがない。さまざまな弊害によって、日本のデモクラシーは弱体化し、ついに今日の状況に至った。
だが、そこで我々が絶対に忘れてならないのが「官僚」の問題である。官僚、ことに「エリート官僚」と呼ばれる一群の役人どもが、日本の憲法を棺桶の中に押し込め、その蓋に釘を打ち込んでいる。
まさに、官僚こそが憲法殺しの直接の下手人。
そういっても決して誇張でもなんでもない。
何しろ、昨今の役人は日本の三権を壟断(独占)し、権力を恣にしているのだ。
立法府には議員はれども、法律の原案を実際に作っているのは役人たちである。
行政府に政治家はあれども、その政策の大綱は役人が作成し、政治家はその書類に判をつくだけの存在である。
176頁、8/30/2003 7:21:17 PM
ことに産業界に対する行政指導においては、官僚の力は万能と言えるほどであった。どんな大企業であろうとも、役人の一顰一笑に汲汲としなければならないのが日本なのである。
さらに司法においても、それは同じである。
本来のデモクラシーにおいても、言うまでもなく司法は裁判所のもの。だが、この日本では実際に「これはよし」、「これはいけない」という判断を下しているのが、役人である。すなわち、司法も役人(行政官僚)に乗っ取られている。
たとえば、ある村に「この橋を牛や馬は通るべからず」という条例があったとする。この橋を象をつれて渡ろうとする人があった場合、そうするか。果たして、この橋を渡ってよいのか、悪いのか(この例は元自治官僚であった加藤栄一教授に拠る)。
村役人に問い合わせたが埒が明かない。さて、そこでどうするか。
これがアメリカやイギリスなら、裁判所に訴えるところだが、日本では県庁に訴える。すると県の役人が行政実例集を参考にして、これを判断して、その是非を教えてやる。
しかし、県のレベルで判断が出なければ、今度は中央官庁にお伺いを立てる。まるで市町村が第一審で、都道府県が第二審、中央官庁が最高裁という三審制みたいではないか。この日本では裁判所の代わりに役人が法判断を下して、それが通ってしまう。
177頁、8/30/2003
9:16:40 PM
これはまさに司法権の簒奪(うびとること)ではないのか。つまり、日本のデモクラシーとは所詮、名ばかりであって、その実態は「官僚独裁」に堕してしまっているのである。
無能な独裁者たち
とはいえ、それでもこうした役人たちの「独裁」の中身が優れたものであるなら、まだ弁護のしようも。ある
現実の世界は所詮、結果論である。
たとえデモクラシーが完璧に実現していても、政治がうまく行われず、人民が今日の暮らしにさえ困っているとすれば「民主主義万歳」とは言いにくい。
逆に、独裁制であっても、それによって人民の暮らし振りが向上していくのであれば、独裁イコール悪とばかりは言えない。
では、そこで日本の場合はいかに。エリート官僚たちが三権を牛耳るようになって、日本国民は果たして幸福になれたのか。あるいは今後、幸福になる可能性があるか。
その答えはもちろん「ノー」である。すでに一章でも述べたとおり、旧大蔵省のエリート官僚たちは自分たちの命令によって、マーケットが自由自在に動くものと信じて疑わなかった。
178頁、8/30/2003 9:27:24 PM
だが、実際に総量規制の通達を出したら、地価が下がったのみならず、日本経済そのものが壊滅的なダメージを受けた。下がった地価はいまだに上がることもなく、国民の財産千数百兆円分が吹き飛んだままになっているのである。
彼らの「大罪」はそれだけに止まらない。厚生省(答辞(の官僚たちは血液製剤によって血友病患者がエイズになる危険を知りながら、それを放置した。国民が病に苦しもうとも、官僚たちは何の痛みも感じなかった。
今回の狂牛病問題にしても、しかりである。狂牛病が現実のものになったとき、農水省や厚生省は機動的に対策を行ったか。自分たちとゆかりの深い関連業界の利益を優先したために、その対策はまるでザル法ではなかったか。
こうした数々の失政に加えて、最近では官僚の腐敗・腐朽ぶりがますます顕在化しつつある。
その筆頭が他ならぬ外務省である。
事故の飲食や遊興の金を、数億円以上も機密費から流用したというスキャンダルが判明したかと思えば、今度は一国会議員の利益誘導のために、対ロシア外交そのものが翻弄されていたことが天下に明らかになった。
かつての外務省といえば、その採用も独自の外交官試験によって行い、「外務省は他の省庁とは格が違う」地湾ばかりのエリート集団だっはずなのに、もはやそのプライドは影も形もない。
このような腐敗・腐朽した独裁者たちの存在こそが、日本のデモクラシーを損ない、日本の憲法を殺した。このことこそ、我々は注目しなければならない。
179頁、8/31/2003 7:26:59 AM
アメリカの民主主義を前進させた西部人
本書で再三再四、指摘しているように憲法の実体は、憲法だけを見ていても始まらない。たとえ立派な憲法があったとしても、憲法の精神が活かされるような「土壌」が実際にあるのか。それを見ない限り、憲法を論じたことにはならない。
ところが日本の憲法学では、そうした実体面を一向に語らない。憲法学者は「論語読み」ならぬ「憲法読み」、つまり憲法の注釈やに堕してしまっているのが現状である。
憲法を活かすために必要な土壌には、さまざまなものが挙げられる。前章で述べた教育も重要なテーマであるのだが、それにもまして忘れてはならないのが官僚制の問題である。
官僚制がどのように行われているのか、そのことと憲法とは重要な関連がある。かつて丸山眞男教授はマックス・ウェーバーの論文を引きつつ、官僚制の恐ろしさを次のように喝破(ずばり言った)。
絶対君主でさえも、いなある意味ではまさに絶対君主こそ官僚の優越せる専門知識に対して最も無力なのである。(丸山眞男「増補版現代政治の思想と行動」未来社。125〜126n)絶対君主といえども、官僚制にはかなわない!
180頁、8/31/2003 8:47:18 AM
とすれば、憲法なんて官僚制に食い殺されてもおかしくない。
しかるには、日本の憲法学者で、憲法と官僚制の関係を徹底的に研究した人がどれだけあるだろう。筆者の知る限り、そうした本格的な論文は存在しない。
その意味において、憲法学者もまた「憲法の死」の片棒を担いでといえるとも言える。それはさておき、憲法、そしてデモクラシーと官僚制がどれだけ緊密な関係にあるのか。
そのことは、19世紀アメリカの「ジャクソニアン・デモクラシー」を思い出してみれば分かる。
アンドリュー・ジャクソン第七代大統領の時代のころを、アメリカの民主主義はさらに一歩前進したと考えられているからである。
ジャクソンは、それまでの大統領とはさまざまな点で異なっていた。まず第一に彼は「丸太小屋に生まれた西部出身者としては最初の大統領」(中屋健一「明解アメリカ史」三省堂。79n)であった。
ジャクソンはノースカロライナで、1767年、開拓民の子供として生まれた。二歳の頃に父親を亡くして、独立戦争中に母と二人の兄が死んだので、14歳で孤児になった。
このため、ジャクソンはほとんど正規の教育を受けることができなかった。後年、彼は発奮努力して弁護士の資格を得、州の最高裁判事にもなったのだが、それらはあくまでも独学だった。
181n、8/31/2003 9:09:38 AM
ジェファソンのような教養人とは、まったく異質のタイプである。これは有名な話だが、大統領になったとき、側近たちが驚いたのが彼がまともなスペリングを知らないことだった。
彼がサインした書類を見ると「OIIKORCT」と書いてある。もちろん「ALLCORRECT(万時良し)」の間違いである。
このジャクソンの間違いから[OK]という言葉ができたとも言われているが、一事が万事で、従来の政治から見れば、ジャクソンはまるで無教養な山猿に見えたことだろう。
「スポイルズ・システム」とは何か
ところが、このジャクソンが大統領に就任して、アメリカの民主主義は一歩前進した。その理由は彼がアメリカの官僚制度を大きく変えたからであった。この改革こそが、ジャクソニアン・デモクラシーの要点、急所であるといってもいい。
大統領になったジャクソンには、一つの信念が合った。
それは「どんな平凡な人間だろうと、役人は務まる」
ジャクソン大統領は、その第一期目の就任演説で次のように述べた。すべての官吏の職務責任というものは、はなはだ簡単明瞭なものであるから、一定度の知能のあるものは、誰でも、それらの職務遂行する資格条件を、すぐ備えるようになれるものである。
(中屋「新大陸と太平洋」中公文庫「世界の歴史」第11巻。149n)
182n、8/31/2003 9:26:35 AM
そこで彼が行ったのは「スポイルズ・システムと呼ばれるものである。ジャクソンは前任者のアダムス大統領時代に任命された官吏をほとんどみな解職し、彼の選挙に功労のあった人たちを任命した。つまり、選挙の手柄に応じて、官職を与えるというのが、この制度のポイントなのである。
ちなみにスポイルとは「戦利品」という意味である。スポイルズ・システムのことを日本語では「猟官制度」とも呼ぶ。
以後、このスポイルズ・システムは、アメリカ民主制度の一部として定着した。
最も徹底的にこれを行ったのがリンカーンで、かれは1639の公職のうち、実に1457という史上最大の更迭を行った。
日本人から見れば、こうした猟官制度は所詮、情実人事であって、非常に問題が多いもののように思えるだろう。
事実、アメリカでもスポイルズ・システムが乱用されたために、まったく職務能力や知識を持たない人間が政府の高官になったりして社会問題になった。
また、猟官運動に失敗した男が逆恨みから大統領を暗殺するという事件もおきた(第二〇代ガーフィールド大統領)。
そこで1883年、メリット・システム(資格任用制)、つまり試験によって公務員を選ぶ制度が作られたわけだが、だからといってスポイルズ・システムが廃止されたわけではない。
今でもアメリカでは政権が交代するたびに、各省庁の局長以上の上級公務員もまた入れ替わる。ジャクソンのスポイルズ・システムは今なお生きているわけである。
アメリカは「貴族政治の国」だった
ジャクソン大統領のスポイルズ・システムが、アメリカ民主主義を一歩前進させた。こういわれても、おそらく多くの読者は、その意味がすぐには呑み込めないだろう。
だが、これは紛れもない事実。
というのは、ジャクソン大統領以前のアメリカは、実は民主主義ではなかった。ある歴史家はジャクソン大統領の当選を持って「アメリカ貴族政治の終結」と言っている位である(中屋「新大陸と太平洋」150n)。確かに、アメリカの合衆国はあの華々しい独立宣言を、もって民主主義をスタートさせた。
だが、その民主政治の実態は、一部の特権階級、いわゆる「エスタブリッシュメント」の手に独占されていた。事実、それまでの歴代大統領にしても、いずれも資産家で、高等教育を受けた人間ばかりであった。
政治に一般庶民の出番はなかった。つまり、憲法の精神はちっとも生きていなかったわけである。じじつ、独立宣言にも憲法にも、またワシントン大統領の就任演説にも「デモクラシー」という言葉が出てこない(中屋「明解アメリカ史」77n)。
184n、8/31/2003 10:17:11 AM
またリンカーンのディスバーグ演説にも「デモクラシー」という言葉は直接使われていない(堂右125n)。
これは官吏の任命にしても同じことで、連邦政府の職員になれるのはエスタブリッシュメントの子弟とか、あるいはそうした人とコネを持っている人間ばかりであった。
ちなみに、この時代、官吏を試験で選ぶという方法はあるにはあったが、完全に定着したとは言えない。イギリスで試験制度が設けられたのは1855年のことである。
さて、こうした一部の人間が長い間、官職を独占していれば、どのようなことが起きるか。
貴族政治の発生である。
アメリカは民主国家だから、もちろんヨーロッパのような貴族は存在しない。だが、一部の階級が行政組織を独占すれば、それは貴族と何ら変わることはない。
彼ら「アメリカの貴族」は自分たちの既得権益だけを守り、国民のことを考えなくなるだろう。だからこそ、ジャクソンが大統領になって官職を一般人に開放したことは、アメリカの民主主義にとって大いなる前進だと歓迎されたわけである。
また、ジャクソンの時代から「デモクラシー」の語が直接に使われるようになった。
官僚抜きに政治を語るなかれ
政治を実行に移していく上で、官吏をどのように登用していくか。
185n、8/31/2003 10:46:24 AM
これは洋の東西を問わず、古来から大きな問題であった。なぜなら、役人の登用法いかんで政治そのものが大きく変わっていくからである。この点、現代の日本で、憲法学者でさえ、「官僚と憲法の関係」なんて考えないのとは大違いである。
たとえば、古代アテネは「民主制」が行われていたことで有名だが、古代のアテネ市民たちは、自分たちの民主制の特徴を「公職への参加に差別がないこと」であると考えていた。
つまり、都市国家アテネの政治を少数の人間に任せずに、なるべく多数の人間が公平に参加させることが大事だと思っていた。
同じ人間が一つの公職に長期間に渡って就いていたら、必ずそこでは腐敗や不正が行われるし、それが続けばやがては貴族政治になってしまいかねない。
そこで、アテネでは役人の在職期間をなるべく短くし、しかも、その役人を抽選で決めることにした。それによって、貴族やそれに類する特権階級が現れることを徹底的に防ごうとしたわけである。
官僚制のあり方によって、政治そのもののあり方も変わる。そのことを古代アテネの人々はよく知っていたのである。
かたや中国においても、宋以前の歴代王朝もまた官吏の問題に頭を悩ませていた。というのも、五代(梁、唐、晋、周)の戦乱によって社会制度が大きく変わるまで、中国では地方の有力貴族がのさばっていたからである。
186n、8/31/2003 11:00:40 AM
こうした貴族たちは、王朝が変わり、皇帝が代わっても地方の政治を壟断し続けた。
地方の公職はすべて貴族に独占されていたので、統一国家といってもその権力は地方にまで及ばなかった。どんな皇帝であっても、地方貴族の存在を無視しては政治を行えなかったのである。
何しろ、貴族の中には「自分たちの家柄は天子の家柄より古い」と自慢するものがあったくらいである。
この貴族の既得権益に対抗するため各王朝の皇帝は知恵を絞りに絞った。そこで隋の文帝が考え出したのが、「科挙」という制度だった(6世紀)。
皇帝が自由に政治を行うには、皇帝直属の部下、つまり官僚が必要である。官僚を皇帝自ら任命することで、貴族の影響力を排除できるのではないか。
だが、そうした有能な官僚を登用するには、常に多数の官僚予備軍が必要である。そこで隋の文帝は公開の試験によって官僚候補を募集しようと考えた。これが科挙である。
といっても、貴族と皇帝の戦いには何も科挙が最初ではない。
実はそれより700年も前、漢の武帝の時代に「考廉」制度といって、家柄などに関係なく優れた人物を官吏に登用するというやり方を実施している。
また、三国志で有名な魏の曹操は「九品官人法」という制度で、人材抜擢を行うとした。しかし、そうした制度はいずれも貴族によって骨抜きにされてきた。
そこで文帝が最後の切り札として出したのが、この科挙であったわけである。といっても、この科挙の制度も簡単に定着したわけではない。
187n、8/31/2003 1:32:40 PM
隋、そしてその次の唐の時代においても、貴族は完全に無力になったわけではない。この間、皇帝が任命した官僚と、貴族との間には熾烈な戦いが繰り広げられた。
科挙がようやく定着したのは、五代の動乱を経て、貴族のほとんどが没落した宋の時代になってからのことだった。つまり、科挙がきちんと機能するまでには四世紀近い時間が必要だったわけだが、そのくらい皇帝にとっては役人の登用が重要なものであったのだ。
「無階級社会」を作り出した明治維新
さて、そこで近代日本の官僚登用制度とはいかなるものであったか。そのことを考えてみることにしたい。
すでに前章で述べたように、明治の新政府は日本を近代国家にするため、「国民」を作ることに最大の努力を傾けた。近代資本主義も国民なくして興り得ず、近代資本主義なくしては日本は近代国家として認められないからである。
そこで明治政府は、教育勅語によって「臣民」という思想を国民に普及させ、それと同時に「四民平等」政策によって、江戸時代の階級制度を廃止した。
これぞデモクラシーではないか。この結果、日本は近代国家への道を歩み始める。ことに教育の成功は、世界史的に見ても驚くべきものがある。
188n、8/31/2003 1:48:50 PM
何しろ日本では日露戦争の直後、1907年には初等教育就学率がほぼ100%に達した!
国民の教育に対して、これほどまでの努力を傾注したというのには西洋の常識では考えられないことであった。
何しろ、同時代のロシアにおいて初等教育を受けた人間は全体の10%に満たなかった。国力においてロシアと比較にならない小国の日本にとって、教育負担は決して軽いものではなかった。
しかし、当時の明治政府は「教育こそが近代国家、資本主義国家を作る」と信じて疑わなかった。
これは驚くべき卓見である。この当時の世界において、教育が経済発展の最大のファンダメンタル(基礎条件)であることはほとんど知られていなかったのだから。
ところが、この大成功は一方において深刻な問題をもたらした。というのも、「天皇の下における平等」を実現させ、国民を作り出すことに最大の努力を傾けた結果、日本は「無階級社会」になってしまったからである。
準貴族以下がいなければ、貴族社会は機能しない
明治維新は、武士や公家といった従来の階級を廃止した。この結果、日本には特権階級はいなくなった。日本は無階級社会になった。
189n、8/31/2003 2:02:34 PM
もちろん、戸籍上では士族という名前だけは残ったが、士族にはなんの見るべき特権はない。むしろ明治維新によって最も経済的打撃を受けたのは、他ならぬ士族だった。
その後、明治政府はイギリスの真似をして華族制度を導入し、かつての公家や諸侯をこの中に収めて、「新時代の階級」を作ろうとしたのだが、この政策は決してうまく行かなかった。
というのも、イギリスでもドイツでも貴族の下には準貴族、準々貴族、準々々貴族と呼ぶべき階層を設けていた(痛快!憲法学73n参照)のに対して、日本にはそういう制度がなかったからである。
このことは近代日本の社会を考える上で、決定的に重要である。ヨーロッパの貴族制度を見る上で重要なのは、こうした準貴族や準準貴族といった階層の人たちが国家や社会の柱石にとなっているという事実である。
たとえば、イギリスの初期資本主義経済を支えたのは、ジェントリー(準準貴族)やヨーマン(準々々貴族)といった地方の名望家たちであった(前章参照)。
ジェントリーはイギリス全人口の10分の1よりずっと少なかったが、「生まれながらの支配者」と呼ばれ、地方の支配権を握っていた。もちろん自前の富もあり、周囲から尊敬を集めていた。
一方のヨーマンは「独立自営農民」とも訳されているが、プライドが高く、勇武を誇り、冒険心を持っていた。「英国社会の華」とも呼ばれていた。アメリカ開拓者となった人も多い。また、たとえばプロイセンやドイツにおいて、その政治や軍隊の中核となったのはユンカーと呼ばれる下級貴族であった。
ドイツ統一を実現したビルマルクもまた、このユンカー出身である。
190n、8/31/2003 3:25:42 PM
ノンブレス・オブリージュとは
いったい、なぜ、ジェントリーのような人々が、イギリスやドイツ社会の中核となったのか。そして、なぜ彼らが憲法やデモクラシーを確立させたのか。このことについて触れておかねばならない。
言うまでもないことだが、ジェントリーやユンカーには財産的な裏付けがあった。そうした安定した生活基盤がなければ、教養を身につけることもできないし、事業を起こすこともできない。
だが、そうした経済的安定があれば、それで充分かといえば、そうではない。さらに重要なのは、プライドであり、責任感である。
自分たちの国家、社会の柱石である。そうした特権意識、エリート意識がなければ、万難を排して事業を起こすとか、国家のために身を挺して奉仕するという行為も生まれてこない。
ちなみに、こうしたエリート意識のことを「ノブレス・オブリージュ(勇者の責務)という。天下のことを自分の任務だと自覚し、そのためには自己の利益をも犠牲にできるという意識である。
プロイセンのユンカー達の子弟に軍人になるものが多いのも、このノブレス・オブリージュの現れである。こうしたエリート意識は貴族制度、あるいは階級制度なくしては生まれ出るものではない。
191n、8/31/2003 3:40:51 PM
ところが、近代日本の場合、こうした準貴族や下級貴族に相当する人々に政府は特権を与えなかった。
本来なら、地方名望家と呼ばれる人たちに一定の特権を与え、彼らにノブレス・オブリージュの意識を涵養させておけばよかったのに、見捨てたのである。
この結果、日本における華族は一般社会から浮き上がった存在になった。かつての大名たちは軍人になるわけでもなく、また事業を興すわけでもなく「太平の惰眠」になってしまった。この結果、日本の華族制度は社会的にはほとんど意味がなくなってしまった。
いや、そればかりか不良華族が頻出し、社会から軽蔑され嫌われることになった。
「社会には階層が必要である」という理由
ギリシャやローマの哲学者がすでに指摘し近代社会学者も認めたように、社会を運営するためにはどうしても階層がなくてはならない。
社会の運営のためには分業と協同が必要であり、そのためには階層を設けなければならないのである。全社員が平等な会社などがありえないように、国家においても階層は不可解である。
もっと具体的に言うならば、社会を指導するエリート層が存在しなければならないということである。
社会にはエリートが必要である。
こう書くと、戦後の平等教育になれた読者の中には反発を覚える向きもあるかもしれない。
192n、8/31/2003 3:57:38 PM
だが、これは厳然たる事実である。たとえば、階級をなくすためにロシア革命を行ったソ連でもノーメンクラツーラと呼ばれる特権階級が出来てしまった。人民中国においても、またしかりである。
国家の構成員、つまり国民に階層がなければ、国家運営はできない。ことに近代国家のような複雑な社会においては、なおさらである。
指導的階層がなければ、その国家は麻痺してしまうことになる。したがって、エリートの存在は不可避であると言ってもいい。
問題は、そのエリートの質である。
もし、そのエリートたちが自己の利益と特権を守ることだけに汲々としていたら、国全体が腐敗・普及していくことになるであろう。
一方、イギリスのジェントリーやヨーマンのごとく、あるいはプロイセンのユンカーのごとく、エリートとしてのプライドと責任を感じていたとしたら、その社会はうまく運営され、発展するかもしれない。
では、この観点から社会科学的に見たとき、明治以後の日本はどうであったか。
維新を起こし、維新に滅びた下級武士
明治の新政府は江戸時代の階級制度を廃止した。この結果、旧来の武士が持っていた特権はすべて失われ、建前であるにせよ、四民平等ということになったわけである。
193n、8/31/2003 4:27:07 PM
このことは日本を中央集権の近代国家とするためには必要不可欠なことだったともいえるわけだが、一方で深刻な問題をもたらした。明治の日本社会から階層構成原理がなくなってしまったのである。もっと具体的に言えば、将来の指導者層をどこからリクルートしてくるのかという問題である。
本来ならば、それに最もふさわしいのは、かつての武士階層であった。江戸期における武士は、エリート階層としての倫理を「武士道」という形で叩き込まれてプライドも高かったし、また教養も高かった。
「武士は食わねど高楊枝」。己の懐具合を思い煩うのは武士として恥ずべきこと。いったん事あらば、自分の身命を顧みず公に奉じるのが武士道の教えである。
この武士道を強く自覚していたのが、幕末の下級武士たちであった。幕末期の下級武士といえば、イギリスのヨーマンとは比べ物にならないほど貧乏であった。
幕府や藩財政の窮乏で、下級武士にはほとんど禄らしい禄は回ってこない。町人のほうがはるかに下級武士より生活ぶりはよかった。ところが、その下級武士たちが町人よりも勝っていたものがある。それは武士としてのプライドと志であり、高い教養であった。
そのことがあったからこそ、明治維新において下級武士が歴史の中心になれた。たとえば、江戸城明け渡しの談判において主役を務めたのが、西郷隆盛と勝海舟であったことはよく知られている。
その西郷と勝は、紛れもない下級武士の出身であった。
194n、8/31/2003 4:44:14 PM
このようなことは欧米でも絶対に考えられないことである。これほど重要なことであれば、組織のトップが行うのが通例である。
いや、日本の戦国時代にしても同じである。本来なら、官軍側の代表は東征大総督たる有栖川宮熾仁親王、幕府側は徳川慶喜と主席老中、この両者が相まみえて交渉すべき問題である。
ところが、維新期の日本ではそうではなかった。なぜか。
上級武士の大多数には、もはやノブレス・オブリージュのかけらも、教養も志もなかったからである。
まさに、下級武士こそが日本のヨーマンであり、ユンカーであったのだ。かつて黒船が来航したとき、吉田松陰は決死の思いでポウハタン号に乗船し、ペリー提督に「是非渡米したい」と申し入れをした。
この松陰の願いは残念ながら叶えられなかったが、ペリーは松陰を見て、「きっと、この人物は貴族であろう」と考えたという。
松陰の身なりは粗末であったが、その振る舞いが気品とプライドに溢れていたから、そう感じていたのであろう。幕末の下級武士は、まさに精神において貴族であった(拙著「歴史に見る日本の行く末」青春出版社57〜61n。
ところが、その下級武士から明治政府は階級的特権をすべて剥ぎ取り、ただの「士族」」にしてしまった。維新の中心にあった下級武士の大多数は、革命によって報いられるどころか、かえって以前よりも生活に困るようになってしまったのである。
「教育を持って階層構成原理となす」
憲法調査のためにドイツ帝国に渡った伊藤博文は、ドイツ初代皇帝ウィルヘルム一世に謁見を許された。そのとき、老帝は親しく伊藤にこうアドバイスをしたという。
「貴国の武士階級は日本の宝だから、大切にしなければならない」ウィルヘルム一世は自国のユンカー達(股肱の臣たるビルマルクもそこに含まれる)をよく知っているから、日本の武士階級の重要性に気が付いたのであろう。
だが、時すでに遅し。本来なら、次代の日本を担うべき「日本のユンカー」たる武士階級は影も形もないのである。かつての下級武士たちは今や、失業者になってしまっている!
そこで伊藤博文が考えたのは「教育を持って階層構成原理となす」というアイデアであった。すでに日本にはイギリスのジェントリーやヨーマン、あるいはプロイセンのユンカーのような階層は存在しない。とすれば、後は失業した武士階層の子弟を中心に教育を与え、その中からエリートを育てるしかないと考えたわけである。
196n、8/31/2003
5:58:34 PM
そこで帰朝後、初代内閣総理大臣となった伊藤博文は、早速明治19年(1886)、帝国大学を創設した(この当時、帝国大学は一つしかなかったので、東京帝国大学と呼ばない)。
この大学の主目的はきわめて明確であった。すなわち、それは高級官僚の養成である。ちなみに、この帝国大学の前身となったのが東京大学であるが、東京大学と帝国大学とでは「平民と貴族ほどの違いがあった」(竹内洋「学歴貴族の栄光と挫折」中央公論社。
「日本の近代」第12巻。62n)。
というのも、最初に生まれた東京大学は決して突出した存在ではなく、単に文部省所管学校の名称に過ぎなかった。この当時は、各省庁が自前の大学や学校を持っていた。法学校、工部大学校、札幌農学校などがそれで、東京大学もその一種に過ぎなかった。
したがって、この頃の東大を出ても、何らかの特権などが与えられたわけではなかったのである。ところが、その東京大学が帝国大学に変わるや否や、その性格が一変する。高級官僚(学歴貴族)を作るための特権的大学に様変わりしたのである。
エリート養成学校として作られた帝国大学
明治19年に誕生した帝国大学は、主に高級官僚養成学校として生まれた。そのことは初代文部大臣の森有礼が作った「帝国大学令」の中に明確に謳われている。
すなわち帝国大学の目的は「国家の枢要に応ずる学術技芸を授受」することにある。卒業生は国家の枢要、つまり高級官吏となることを期待されていたわけである。
この当時、帝国大学には法・文・医・工・理の五学部(正確には分科大学)があったが、法科大学長が帝国大学総長を兼任する事になっていた。もっと重要なことは帝国大学の卒業生は、当初、試験を受けなくても高級官吏(高等官)になることができたという点である。
帝国大学の学生に限り、試験を免除する!
これ、まさしく帝国大学が官吏養成学校として作られたことの証明に他ならない。この当時、高等官を採用するための試験はあった(高等文官試験)。しかし、その試験は難関であって、容易に合格のできるものではない。
ところが、帝国大学の学生なら、試験を受けなくても短期間の見習い期間を経れば、高等官になれるのである。
さすがに、この露骨な特権に対しては世論の反対も強く、後に試験免除の制度はなくなるのだが、東京帝国大学はその後も官僚養成学校でありつづけた。明治27年から昭和二十二年に至るまでの高等文官試験(行政科)の合格者のうち、なんと62%は東京帝国大学出身者によって占められていた。
198n、8/31/2003 6:31:51 PM